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オタク論:最近のオタクは気に入らないけれど

 おれはオタクだし、陰キャだし、チー牛である。

 おれは、オタキング岡田斗司夫が好きだ。彼は、オタクというのは、「一般に『子供向け』とされる文化を、『自分はそれが好きだから』と敢えて自ら選択し、世間の批判の目を『意志と知性』で乗り越えていく」人々のことであると言っている。

 こんなに高尚な定義を提出されると、オタクであることがなんだか難しいことのような気がして来て頭を掻きたくなる。彼は2006年に新宿のロフトプラスワンで、「オタクは死んだ」と涙を流しながら語った。当時僕は物心もついていなかったけれど、時代の恩恵でYouTubeで観ることができた。

 彼の〈オタクであること〉に対するプライドには感服する。彼の思い描くオタクは、たしかに2006年当時、「萌え」アニメが台頭してきた時点で、死んでいたのだろう。オタクたちはキャラ消費を始めたからだ。この、死んでしまったオタクたちを〈プロト-オタク〉と呼ぶことにする。

 もちろん、〈プロト-オタク〉は地球上に一人もいないのかと言われれば、そんなことはない。ただし、おれ自身を含め、現在「オタク」を自負する人たちで、彼の言うような、命がけと言ってもいいような矜持を持っているやつはとても、とても少ない。オタクは死んだんだ、と言って泣くような連中は。

 それでも、世の中にはオタクが増え続けている。

 おれが、明確にオタクになったのは、たぶん、中学二年生の時だと思う。生まれてはじめて観た深夜アニメは、「ご注文はうさぎですか?」だった。リアルタイムではなく、PlayStation4のアニマックスプラスで、母親が来ないかびくびく怯えながら観た記憶がある。次に観たのは、「涼宮ハルヒの憂鬱」だった。そこからは、2006年から2010年ごろのアニメ――コードギアスシュタインズゲートけいおん!らき☆すた――をたくさん観た。

 その頃のネットカルチャーも大好きだ。「ニコニコ動画流星群」や組曲ニコニコ動画」は世代でもないのに全部歌えるし、ボーカロイドといえばマトリョシカやモザイクロールやローリンガールだろうと思う。

 おれ自身にとっては、オタクというのは"その時代"のオタクを指す。男臭くて、下品で、救いようがなく、学校では友達もいないような連中が、ネット上の掃き溜めでだけ内輪ネタを楽しんでいるような、そんな雰囲気が好きだ。大好きだ。

 だからおれは、最近の、堂々としたオタクがあまり好きではない。これと同じ気持ちを、オタキングは2006年当時に感じていたのかもしれない。

 「萌え」は好きだけれど、「尊い」は好きではない。

 「オタク」という存在は、まるで生物の進化のように、枝分かれしているのだと思う。

 まず、研究者気質の〈プロト-オタク〉たちがいた。彼らは意志や知性を持ち、オタク全体の一致団結感のもとにあった。21世紀に入り、"萌え"が始まった。新しい萌え文化のもとで育ったオタクたちは、インターネットの急速な普及に伴いジャンル別に分化し、一体感は薄れていった。さらに時が経ち、オタクは十分すぎるほどに一般化し、オタクカルチャーは市民権を得た(陳腐化した)。もはやオタクを隠す人間は少ない。彼らを〈ネオ-オタク〉とでも呼ぼうか(自分が最も好きな時代のオタクを軸に名付けをしてしまって、申し訳ない)。彼らは「萌え」ではなく、「尊い」という言葉を使うのだ。

 しかし、昔のオタクたちも生きている。ちょうど、シーラカンスカブトガニのように、昔の姿のまま、生態を変えないまま。

 オタクの要件は、〈気持ち悪さ〉だと、最近思っている。

 今だって昔だって、オタクが気持ち悪い存在であることは変わりがない。萌えだって、尊いだって、気持ち悪いんだから。〈気持ち悪さ〉だけは、いつの時代も共通している。これが、現代のオタクの要件だと思う。

 作品への愛ゆえの一定の言動――「萌え」なり、「俺の嫁」なり、「尊死」なり、「限界」なり――が、一般に見て"気持ち悪い"と言われうる集団。それに多かれ少なかれ、誇りを持っている集団。これを、〈オタク〉と定義したい。

 さいきん、おれはそう思って、TwitterYouTubeにいる〈ネオ-オタク〉たちに、あるいは、昔、命がけだった〈プロト-オタク〉たちに、少し寄り添えているような気がしているのだ。