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高3のときに書いた機械翻訳に対する意見

 日々、勉強をこなしていく中で、度々思うのだが、翻訳といったものは、徹底的に近似である。そもそも言語というものは、何百何千年という人間の営為から出力された、風土やら生活やら、あるいは争いの結晶なのであり、人間の感覚の大部分、思考のほとんど全部を占める非常に重要なファクターなのであり、ある言語のある言葉の含みうる「意味」というものは、単純な語義だけでない。そのすべてを、全然翻訳しきるということはもとより不可能である。

 ではなぜ、我々は翻訳に魅せられ、それをやめないのであろうか。それは翻訳の、近似とは違う側面に起因するのだ。

 他言語の文学作品や学術論文を読むに当たって、いちいちその言語をマスターする必要があったのでは、我々の言語生活は、極めて煩雑になるか、あるいは極めてドメスティックなものにとどまるであろう。もちろん翻訳はそのような事態を打開する方策である。

 他言語によるディスクールの理解の幇助というのが翻訳の唯一の役目だとするならば、機械翻訳という我々が最近得た道具は、我々から翻訳という労苦を取り去る夢の発明ということになる。論理的な破綻、言語としての不自然性が完全にない機械翻訳が実現したとき、人の手による翻訳は、忘れ去られるべき運命にあるのだろうか。

 私には、そうではないと断言することができる。人の手による翻訳は、その不可能性のうちに、無限の可能性を織り込んでいる。

 "I love you."を、「我君を愛す」と訳した学生に対し、夏目漱石が「『月が奇麗ですね』とでも訳しておきなさい」と言ったとする伝説は、あまりにも有名である。その真偽はさておき、機械に、このような翻訳ができるであろうか。漱石は、あるいは、漱石がこう訳したのだという伝説をでっち上げた人間は、彼自身の生活の賜物として、このような論理的に破綻した翻訳をしてみせたのだ。「我君を愛す」と、「月が奇麗ですね」であれば、前者のほうが忠実である。言い換えれば、機械翻訳的である。後者は、翻訳的翻訳であると、私は言いたい。

 翻訳とは、それ自体が、創作の成分を多分に含んだ営みである。小説家は、画家は、音楽家は、彫刻家は、映画監督は、ふつう、自分の生活と、頭脳とを限界まで使用して、作品を作り上げる。翻訳も同じである。何らかの作品には、多くの場合テーマというものがある。小説にしろ画にしろ音楽にしろ彫刻にしろ映画にしろ、テーマというものがなければ、噛みごたえがなく、味わいが薄く、記憶に留まらぬものとなる。翻訳は、予めテーマが大まかに決められた形態を持つ文学と言っていいと、私は考えたい。小説、画その他が、作者の人生の全部を代表するように、翻訳というものは、本来であれば翻訳者の人生全部を雄弁に語るものなのだ。

 機械翻訳には、翻訳者など存在しない。ゆえに味わうべき味が、歯ごたえが、もとより、ない。世の中のすべての翻訳が機械翻訳になってしまった世界とは、ある一つの豊かな文芸の世界が失われた世界である。翻訳者たちの人生をなかったことにしてしまう世界である。

 人の手による翻訳は、その不可能性ゆえに、魅惑の光を放つ。ネイティヴスピーカー同士の会話であっても、相手の言いたいことを全部理解することは困難を極めることだ。ある他言語による作品を、全体理解するのが目的なら、その作品が書かれた言語を学習するがよろしい。それでも、全体理解することはほとんど不可能に近いことだが。翻訳は、原典の徹底的な理解など目的としていない。翻訳に正解はないと言っても同じことだ。

 翻訳者がなぜそう翻訳するに至ったのかに思いを馳せたり、自分ならどう訳すかを考え抜いたり、そういうことを楽しむために、翻訳はあるのであり、それゆえに、翻訳は永遠の輝きを持つ営みなのである。不滅の文芸なのである。

 

 

 

(2021/09/23)

 

 

 

 

オタクこそおしゃれに向いていると思うって話

 偉そうに語ってるけど、僕は服のことに関してはマジで全然詳しくない。でも、最近、その面白さを分かりたい、し、わかり始めた、と思っているから、書きます。

 

 

 

 すでに何度かここにも書いたし、僕のツイッターを見てくれればわかることでもあるんだけど、僕は高校三年間も、そして中学三年間も、ゲームやネットばっかりしていた。

 中学生のころは、僕は容姿のことをいじられることが多かった。地域柄、というか僕の学年だけなのかもしれないけれど、周りの人間は僕のことを例えば「肌が汚い」(これに関しては放っておいてくれよ、泣)だとか「韓国人っぽい顔」だとか揶揄してきたわけである。それに関しては文句はない。大人が聞くと「なにを大人ぶってる大学生風情が」と思われるのを承知で言うけれど、中学生のガキなんて、みんな自分が分からなくて、自分しかわからなくて、もやもやして他者を簡単に傷つけるし、傷つけてよい人がいれば飛びつく。

 そんなこんなで今の僕も自分の容姿には自信がない。だし、僕が服や身だしなみに気を使って何か言われてしまうのが死ぬほど怖かった。だから本当はちょっと気になるけれど、服とか容姿のことを気にしないようにしていた。

 

 でも、最近になって、少し気が変わってきた。

 

 

 Tik tokとかで「垢抜ける方法」「脱オタコーデ」「モテファッション」云々が蔓延っている…

 

 これにとやかく言うつもりはない。垢抜けないより垢抜けているほうがいい。モテないよりモテるほうがいい。マネするだけでおしゃれになれるなんて、とっても便利でいいことである。トレンドをおさえて、清潔感を第一にして、無難に、無難に——。

 

 でも、この話でオタクにお勧めしたいのはこういう服装ではない。冒頭の気持ち悪い自分語りに一ミリでもギクリとした、そこの君にこそ、おすすめしたい考えがある。

 

 

 服好きの思考とオタク的思考は結構似ているのである。

 

 

「ふーん、で、君は涼宮ハルヒのキャラで誰が好きなの?」

 

「オウフwwwいわゆるストレートな質問キタコレですねwww
おっとっとwww拙者『キタコレ』などとついネット用語がwww
まあ拙者の場合ハルヒ好きとは言っても、いわゆるラノベとしてのハルヒでなく
メタSF作品として見ているちょっと変わり者ですのでwwwダン・シモンズの影響がですねwwww
ドプフォwwwついマニアックな知識が出てしまいましたwwwいや失敬失敬www
まあ萌えのメタファーとしての長門は純粋によく書けてるなと賞賛できますがwww
私みたいに一歩引いた見方をするとですねwwwポストエヴァのメタファーと
商業主義のキッチュさを引き継いだキャラとしてのですねwww
朝比奈みくるの文学性はですねwwww
フォカヌポウwww拙者これではまるでオタクみたいwww
拙者はオタクではござらんのでwwwコポォ」

 

 

 「また懐かしいものを…」という諸兄の声が聞こえてくるようだが、まあ、とりあえず聞いてほしい(文字なのに聞いてほしいというのもヘンだけど。そんなことはどうでもよい)。

 

 このあまりに有名なコピペに登場する古風なオタクは、作品のことを知識を交えて語っている。ちなみにダンシモンズというのは作中で重要アイテムである『ハイペリオン』の著者である。別にマニアックな知識ではない。

 

 まあ何しろキモチワルイ。最高である。これぞオタクの真骨頂。

 

 

 服好きで有名な人に、お笑い芸人の四千頭身の都築さんがいる。彼のYouTubeチャンネルは服のことでいっぱいである。僕には全然わからないけれど、とっても楽しそうである。

 

www.youtube.com

 いやー、ウザい。黙っとれと。

 これの何がオタク的であるか、言うまでもなかろう。というか、都築さんは服オタクなので、オタク的なのは当たり前かもしれない。

 でも、言いたいことはわかったのではなかろうか。服って、おしゃれになるための手段ともとれるけれど、それじたいが、とっても面白い「コンテンツ」なのだ。

  

 少しポケモンで譬えるけど、あまり知らないので的外れだったらすまない。

 

 でんせつのポケモンとか厨ポケのほうが強いのは当たり前なのに、それに自分の好きなポケモンを限界まで育成にこだわって勝とうとするオタク。

 と、

 みんなにウケがいい流行りのファッションに眉をひそめ、自分の信じるカッコよさを貫く服好き。

 

 全く同じじゃね!?

 

 

 そこの、ファッションは最低限変に思われなければいいや、と思う君とか、マジでどうでもいいと思っている君。

 

 少しだけ、ほんの少しだけ、服のことを調べてほしい。ブランドの歴史とか、デザイナーとか、それこそ流行り廃りの流れとか、デニムの育成とか。

 

 おんもしろいから。

 

 もしそれでもやっぱりしっくりこなかったら、Tik tokとかYouTubeで「垢抜けファッション」って検索して完コピしよう。

Translating "Honesty ", Billy Joel, to Japanese ―― 京大生がビリー・ジョエル「オネスティ」を和訳してみた

If you search for tenderness

It isn't hard to find

You can have the love you need to live

But if you look for truthfulness

You might just as well be blind

It always seems to be so hard to give

 

君が優しさを求めるなら

簡単に見つかるはずさ

ただ生きるだけの愛なら手に入る

でも誠実さを探し求めるなら

暗闇の中を探さなきゃならない

誠実に生きるのはいつだって難しいみたいだ

 

Honesty is such a lonely word

Everyone is so untrue

Honesty is hardly ever heard

And mostly what I need from you

 

「誠実」ってなんて寂しい言葉

だってみんな不誠実だから

「誠実」めったに聞かない言葉

それでも僕は君に誠実でいてほしいんだ

 

I can always find someone

To say they sympathize

If I wear my heart out on my sleeve

But I don't want some pretty face

To tell me pretty lies

All I want is someone to believe

 

本当のことを言ってしまえば

同情だけならしてくれる人はいるさ

だけどそんな人も可愛い顔をして可愛い嘘をつく

それじゃだめなんだ

心から信じられる人がいればそれでいいのに

 

Honesty is such a lonely word

Everyone is so untrue

Honesty is hardly ever heard

And mostly what I need from you

 

「誠実」ってなんて寂しい言葉

だってみんな不誠実だから

「誠実」めったに聞かない

それでも僕は君に誠実でいてほしいんだ

 

I can find a lover

I can find a friend

I can have security

Until the bitter end

Anyone can comfort me

With promises again

I know, I know

 

恋人はできる

友達だって

不安ってことはないんだ 多分死ぬまで

誰だって僕を慰めはできる

もう一度約束をして

わかってる わかってるけど

 

When I'm deep inside of me

Don't be too concerned

I won't ask for nothin' while I'm gone

But when I want sincerity

Tell me, where else can I turn?

'Cause you're the one that I depend upon

 

僕が殻に閉じこもったときは

あまり気にしないでほしい

いないときは何も求めてないとき

だけど僕が誠実さを求めているときは

教えてくれ どこに行けばいい

君だけが道標なんだ

 

Honesty is such a lonely word

Everyone is so untrue

Honesty is hardly ever heard

And mostly what I need from you

 

「誠実」ってなんて寂しい言葉

だってみんな不誠実だから

「誠実」めったに聞かない

それでも僕は君に誠実でいてほしいんだ

 

 

Because I am just learning English, my translation may be confuing or "untrue".

But I think there is no such thing as perfect translation just as perfect sentence.

Thank you.

 

 

東大と京大の差について:カニとカニカマ

まえがき

 自分自身が通っていると忘れてしまいがちだけれど、世間で言うと「京大生」とかといった存在は、ある種レア物で、めったに出くわさないタイプの人間のうちに入っている。おれはこれまでの人生で、18年間は京大の外側、つまり世間側から京大を見つめていたけれど、受験を経、いわゆるレア物側の視座、京大生側の見方を持つようになったと思っている。

 つまり、東大と京大の差について、世間一般よりいくぶん詳しくもなっているということで。このブログでこういうことを書くことになるとは思ってなかったけれど、なんとなく食いつきが良さそうなので"撒き餌"として書いておこうという気になった。両大学で迷っていたり、両大学の差に関心がある人は、是非ご一読をおすすめする。

差について

 前置きが長くなった。東大と京大の差をおれの乏しい語彙で可及的わかりやすく言い表してみる。

 東大と京大は、カニカニカマくらい違う
 東大と京大は、ヘッドホンとイヤホンくらい違う

 わかりやすく、といったけれど、両者の差を一言で表す言葉はないようにも思える。大学の格、みたいなものを定量化できるとして、両者は質的には異なれば、量的にも異なるように思う。

 東京一極集中、が、叫ばれるようになって久しい。ようは、そういうことなのだ。世間的には、東大生とか、京大生が同じように遠い存在に思えるかもしれないけれど、われわれ京大生からすると、東大生というのは、世間一般から見たわれわれと同じように、遠い存在なのである。

具体的な差:入試難易度

 日本の受験制度には、偏差値という幻想がはびこっている。この幻想の有用性はさておき、世間では大学の難易度を示す強力な指標としての地位をほしいままにしていることは、揺るがない事実である。偏差値批判の記事になってしまうわけにはいかないので、この記事でも偏差値を扱っておく。

東大        京大

【文系】

文科一類 67.5   法学部  67.5
文科二類 67.5   経済学部 67.5
文科三類 67.5   文学部  67.5

【理系】

理科一類 67.5   理学部 65
          工学部 62.5 - 67.5
理科二類 67.5   農学部 62.5 - 65
理科三類 72.5   医学科 72.5

(データは河合塾2022の偏差値表によった)

 こうしてみてみると、大差がないように思える。実際には大差があるのに。東大の最大の特徴は、東大であることだ。言わずもがな、日本で最強。天才の殆どは、ここに集う。一部の変わり者たちが、東大にあぶれ、京大やら東工大に転がり込む。最高レベル、と、最高とでは訳が違う。

具体的な差:入ってから

 読んでくれている人たちは、多少なりとも東大とか京大に興味があるから読んでくれているのであろうし、こんなことを今更言うまでもないかもしれないが。

 東大には、「進学振り分け」がある。

 進学振り分け――下手をすれば小学校低学年から競争に次ぐ競争を勝ち抜いてきた最強エリートたちを、合格の余韻に浸る暇さえ与えず、さらなる競争へと投入する、常軌を逸した制度。

 希望の学部に進学するためには、進振りで勝つ必要がある。当然、大学に入ってからも勉強が必要となるのだ。

 一方、我が京都大学はどうだろう。一年の前期、おれはこれでもかというほど手を抜いた。それでも単位は20/30も貰うことができた。落とした単位だって、テストを受けなかったりして落としたのであって、本気でやれば取れたかもしれない。これで一回生が一番大変との話しなのだから、ほんとうに楽なのである。

 一般に――京大のほうが東大よりずっと単位が取りやすい。勉強をせずとも卒業できるのに、わざわざ勉強するような輩は、京大生の中でも稀有な存在だ(そんなやつは東大に行けばよろしい)。

具体的な差:卒業後の進路

 平均的な学生について言えば――ここまで京大を貶め、東大を礼賛してきたおれが言うのもなんだけれど――両大学に大差はないように思う。

 外コン、外銀、五大商社――皆が羨む勤め先を得て大学をあとにする者は多い。

 ただし、これは勿論、就活に参加した者についてのみ、言えることだ。

 なぜか、うちの大学には就活をしない勢力がいる。かといって、院進もしない。

 ――そう。行方不明である。

 大学卒業後、行方不明。嘆かわしい事態だ。諸君らのせいで我が大学に良からぬ印象がつくのだ。

 と、言いたいところだが、おれは京大のこういうところも好きだ。なんというか、行方不明になることさえ、就活をしないことさえ、「いちびり」、「ボケ」として許容するような雰囲気がある。真面目に働くことを小バカにしている斜に構えたなんちゃってインテリ。かわいらしいではないか。

 さて、差、から話がズレすぎた。

 勿論、東大にも行方不明者はいるのだろうが、その割合の多さは京大が圧倒しているだろう。各界で実績を残すのは当然、東大である。

まとめ

 これを読んでいる人がどういった人かは知るすべがないが、もし高校生がいたなら、どちらの大学により惹かれるだろうか。

 おれは、ぜひ京大に惹かれた諸君と懇意になりたいと思う。このいちびり精神がわかる人間はこぞって面白い。

 一方、東大に惹かれた諸君におれから言えることは、勉強を頑張れということだけだ。東大には漢文も、リスニングも、文系であれば2科目目の社会も必要だ。労力が桁違いに大きい。京大なら、比較的楽に入れるが。

 ――結論、おれは京大が好きだということだ。

 惚気話を聞かせてしまい、申し訳なかった。また、なにかの機会に。

オタク論:最近のオタクは気に入らないけれど

 おれはオタクだし、陰キャだし、チー牛である。

 おれは、オタキング岡田斗司夫が好きだ。彼は、オタクというのは、「一般に『子供向け』とされる文化を、『自分はそれが好きだから』と敢えて自ら選択し、世間の批判の目を『意志と知性』で乗り越えていく」人々のことであると言っている。

 こんなに高尚な定義を提出されると、オタクであることがなんだか難しいことのような気がして来て頭を掻きたくなる。彼は2006年に新宿のロフトプラスワンで、「オタクは死んだ」と涙を流しながら語った。当時僕は物心もついていなかったけれど、時代の恩恵でYouTubeで観ることができた。

 彼の〈オタクであること〉に対するプライドには感服する。彼の思い描くオタクは、たしかに2006年当時、「萌え」アニメが台頭してきた時点で、死んでいたのだろう。オタクたちはキャラ消費を始めたからだ。この、死んでしまったオタクたちを〈プロト-オタク〉と呼ぶことにする。

 もちろん、〈プロト-オタク〉は地球上に一人もいないのかと言われれば、そんなことはない。ただし、おれ自身を含め、現在「オタク」を自負する人たちで、彼の言うような、命がけと言ってもいいような矜持を持っているやつはとても、とても少ない。オタクは死んだんだ、と言って泣くような連中は。

 それでも、世の中にはオタクが増え続けている。

 おれが、明確にオタクになったのは、たぶん、中学二年生の時だと思う。生まれてはじめて観た深夜アニメは、「ご注文はうさぎですか?」だった。リアルタイムではなく、PlayStation4のアニマックスプラスで、母親が来ないかびくびく怯えながら観た記憶がある。次に観たのは、「涼宮ハルヒの憂鬱」だった。そこからは、2006年から2010年ごろのアニメ――コードギアスシュタインズゲートけいおん!らき☆すた――をたくさん観た。

 その頃のネットカルチャーも大好きだ。「ニコニコ動画流星群」や組曲ニコニコ動画」は世代でもないのに全部歌えるし、ボーカロイドといえばマトリョシカやモザイクロールやローリンガールだろうと思う。

 おれ自身にとっては、オタクというのは"その時代"のオタクを指す。男臭くて、下品で、救いようがなく、学校では友達もいないような連中が、ネット上の掃き溜めでだけ内輪ネタを楽しんでいるような、そんな雰囲気が好きだ。大好きだ。

 だからおれは、最近の、堂々としたオタクがあまり好きではない。これと同じ気持ちを、オタキングは2006年当時に感じていたのかもしれない。

 「萌え」は好きだけれど、「尊い」は好きではない。

 「オタク」という存在は、まるで生物の進化のように、枝分かれしているのだと思う。

 まず、研究者気質の〈プロト-オタク〉たちがいた。彼らは意志や知性を持ち、オタク全体の一致団結感のもとにあった。21世紀に入り、"萌え"が始まった。新しい萌え文化のもとで育ったオタクたちは、インターネットの急速な普及に伴いジャンル別に分化し、一体感は薄れていった。さらに時が経ち、オタクは十分すぎるほどに一般化し、オタクカルチャーは市民権を得た(陳腐化した)。もはやオタクを隠す人間は少ない。彼らを〈ネオ-オタク〉とでも呼ぼうか(自分が最も好きな時代のオタクを軸に名付けをしてしまって、申し訳ない)。彼らは「萌え」ではなく、「尊い」という言葉を使うのだ。

 しかし、昔のオタクたちも生きている。ちょうど、シーラカンスカブトガニのように、昔の姿のまま、生態を変えないまま。

 オタクの要件は、〈気持ち悪さ〉だと、最近思っている。

 今だって昔だって、オタクが気持ち悪い存在であることは変わりがない。萌えだって、尊いだって、気持ち悪いんだから。〈気持ち悪さ〉だけは、いつの時代も共通している。これが、現代のオタクの要件だと思う。

 作品への愛ゆえの一定の言動――「萌え」なり、「俺の嫁」なり、「尊死」なり、「限界」なり――が、一般に見て"気持ち悪い"と言われうる集団。それに多かれ少なかれ、誇りを持っている集団。これを、〈オタク〉と定義したい。

 さいきん、おれはそう思って、TwitterYouTubeにいる〈ネオ-オタク〉たちに、あるいは、昔、命がけだった〈プロト-オタク〉たちに、少し寄り添えているような気がしているのだ。

感想:この世界の(さらにいくつもの)片隅に

 まず、大学一回生の若造が、一丁前に戦争に関して話をすることを、許していただきたい。

 僕は大学生である。その前には日本人である。属性に応じて課される義務、といったものは堅苦しくて、狭苦しくて苦手だ。だけれどそれを完全に排除しきることはできない。義務が義務であるには相応の理由があるからだ。モラトリアムは及ばない。

 日本人(あるいは平和を生きる人間)の義務の一つに、戦争を語る/知るというものがある。

 戦争は悲しい。残酷だ。そして厄介なことに、誰にも責任を問えない。ゆえに、それを語るとき、そしてそれを知ろうとするとき、偏りのない態度が求められる。その点において、この作品は成功していると言える。

 本作は、二次大戦下の広島・呉でたくましく生きようとする一人の女性を軸に、当時の人間の生きざまを描いていており、随所で高い評価を得ている。単にフィジカルな残酷さを見せるだけでは伝わらない本当の残酷さがそこでは表現されている。

感想

 当時の銃後にとっての戦争とは何だったのかということを考えたときに、僕はこの映画を見て、得体の知れない怪物を想起した。暗闇に人を連れ去ってしまう怪物。誰もがその脅威に内心はおびえていながら、それを口にはできない。それを口にすることを許せば、ぎりぎりで保たれているみんなの心が壊れてしまうような空気が瀰漫している。

 人は脆い。フィジカルに脆く、メンタルにも脆い。殺すのに周到な準備など必要がない。運の巡りだけである。それが戦時ならなおのことだ。

 人間はいつだって寄り添って生きる。一人ひとりの脆さを、寄り添いあって、補完しながら生きる。怪物の過ぎ去るのを待つには、一人ではあまりに寒く、さみしい。

 世の中はつらくて、一人だとさらにつらい。

 だから、見つける必要がある。

 たいそうな場所じゃなくていい。目立つ場所じゃなくていい。

 ただ、見つければいい——この世界の片隅に

 そういうような優しいささやきを、この映画に聞いたような気がした。

初稿:半端決意表明

 高校三年間で予期されたあらゆる青春的事象と泣き別れ、やったことといえば勉強ばかりであったのに、そんなにしたのに這う這うの体でしか入れなかった大学で提供されている教育はこれは面白くない。

 

 面白がる精神的土壌が培われていないだけなのだろうけれど、僕にとっては致命的ではある。

 

 かといってサークルになんて入れるわけがない。中高6年間、帰宅部を決め込んだ僕にとって、アフター・スクールは余暇でしかない。何らかの活動をするには気だるすぎる。

 

 一方で、(具合の悪いことに)僕は人間で、若くて、男だ。年老いた雌豹かなんかだったら、すごくうれしかったのに、現実問題、僕は人間で、しかも若い男であるという、きわめて苦々しい状態にある。

 

 ゆえに、エネルギーは持て余される。ガスがたまる。しかしながら、大学で予期される青春的事象を享受するには僕は卑屈すぎる。

 

 これら諸仮定の論理的帰結として、今僕はラップトップに向かってかけらも意味のない文言をつらつらとつづっているわけだ。

 

 だけれどやるからにはきちんとしたい。あらゆる方面で「きちんと」の対義語の地位をほしいままにしてきた僕だけれど、今回ばかりはやろうと思う。

 

 問題は何をやるかであるけれど、それを決めるのは極めて難しいし、ナンセンスだ。とにかく続けること——その決意を今回は表明したい。

 

 

 僕自身を含めて、ここまで読み進めるような変わり者のために、最近(というか今)考えることを記念に残しておくことにする。

 

 

 憧れ、というものは厄介だななんて考える。

 

 僕もこれまで徒然なるままに生きてきた中で、憧れを抱く人はいた。憧れとは何だろう。同化への志向というのが落ち着くべき言い方の一つだと思う。これはとても恐ろしいことだと思う。

 

 自分らしさ、というものがある。

 

 自分の自分性を特徴づけるいくつかのフィーチャーの集合。その要素のそれぞれが、実は他人から借りてきたもののコレクションである事態は、きわめて一般的で、ほとんど人間にかけられた呪いのような様相を呈している。

 

 本来的な自分。可能性的な自分といってもいい。とにかくそういう、真っ白な自分は、人間社会にあって、決定的に封印されている。全部他人のマネ、と揶揄する自分が口を閉じない。

 

 自分としては、本来的な自分は立ち現れない。自分らしさの選び取り方の「くせ」にだけ、彼らはその存在をほのめかしてくれる。と、思う。

 

 だから好きな音楽、好きな本、好きな映画というものを、みんなは気にするのかもしれない。絶対に実現できないほんとうの自分のシルエットを、できるだけ正確にかたどるために。