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高3のときに書いた機械翻訳に対する意見

 日々、勉強をこなしていく中で、度々思うのだが、翻訳といったものは、徹底的に近似である。そもそも言語というものは、何百何千年という人間の営為から出力された、風土やら生活やら、あるいは争いの結晶なのであり、人間の感覚の大部分、思考のほとんど全部を占める非常に重要なファクターなのであり、ある言語のある言葉の含みうる「意味」というものは、単純な語義だけでない。そのすべてを、全然翻訳しきるということはもとより不可能である。

 ではなぜ、我々は翻訳に魅せられ、それをやめないのであろうか。それは翻訳の、近似とは違う側面に起因するのだ。

 他言語の文学作品や学術論文を読むに当たって、いちいちその言語をマスターする必要があったのでは、我々の言語生活は、極めて煩雑になるか、あるいは極めてドメスティックなものにとどまるであろう。もちろん翻訳はそのような事態を打開する方策である。

 他言語によるディスクールの理解の幇助というのが翻訳の唯一の役目だとするならば、機械翻訳という我々が最近得た道具は、我々から翻訳という労苦を取り去る夢の発明ということになる。論理的な破綻、言語としての不自然性が完全にない機械翻訳が実現したとき、人の手による翻訳は、忘れ去られるべき運命にあるのだろうか。

 私には、そうではないと断言することができる。人の手による翻訳は、その不可能性のうちに、無限の可能性を織り込んでいる。

 "I love you."を、「我君を愛す」と訳した学生に対し、夏目漱石が「『月が奇麗ですね』とでも訳しておきなさい」と言ったとする伝説は、あまりにも有名である。その真偽はさておき、機械に、このような翻訳ができるであろうか。漱石は、あるいは、漱石がこう訳したのだという伝説をでっち上げた人間は、彼自身の生活の賜物として、このような論理的に破綻した翻訳をしてみせたのだ。「我君を愛す」と、「月が奇麗ですね」であれば、前者のほうが忠実である。言い換えれば、機械翻訳的である。後者は、翻訳的翻訳であると、私は言いたい。

 翻訳とは、それ自体が、創作の成分を多分に含んだ営みである。小説家は、画家は、音楽家は、彫刻家は、映画監督は、ふつう、自分の生活と、頭脳とを限界まで使用して、作品を作り上げる。翻訳も同じである。何らかの作品には、多くの場合テーマというものがある。小説にしろ画にしろ音楽にしろ彫刻にしろ映画にしろ、テーマというものがなければ、噛みごたえがなく、味わいが薄く、記憶に留まらぬものとなる。翻訳は、予めテーマが大まかに決められた形態を持つ文学と言っていいと、私は考えたい。小説、画その他が、作者の人生の全部を代表するように、翻訳というものは、本来であれば翻訳者の人生全部を雄弁に語るものなのだ。

 機械翻訳には、翻訳者など存在しない。ゆえに味わうべき味が、歯ごたえが、もとより、ない。世の中のすべての翻訳が機械翻訳になってしまった世界とは、ある一つの豊かな文芸の世界が失われた世界である。翻訳者たちの人生をなかったことにしてしまう世界である。

 人の手による翻訳は、その不可能性ゆえに、魅惑の光を放つ。ネイティヴスピーカー同士の会話であっても、相手の言いたいことを全部理解することは困難を極めることだ。ある他言語による作品を、全体理解するのが目的なら、その作品が書かれた言語を学習するがよろしい。それでも、全体理解することはほとんど不可能に近いことだが。翻訳は、原典の徹底的な理解など目的としていない。翻訳に正解はないと言っても同じことだ。

 翻訳者がなぜそう翻訳するに至ったのかに思いを馳せたり、自分ならどう訳すかを考え抜いたり、そういうことを楽しむために、翻訳はあるのであり、それゆえに、翻訳は永遠の輝きを持つ営みなのである。不滅の文芸なのである。

 

 

 

(2021/09/23)