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初稿:半端決意表明

 高校三年間で予期されたあらゆる青春的事象と泣き別れ、やったことといえば勉強ばかりであったのに、そんなにしたのに這う這うの体でしか入れなかった大学で提供されている教育はこれは面白くない。

 

 面白がる精神的土壌が培われていないだけなのだろうけれど、僕にとっては致命的ではある。

 

 かといってサークルになんて入れるわけがない。中高6年間、帰宅部を決め込んだ僕にとって、アフター・スクールは余暇でしかない。何らかの活動をするには気だるすぎる。

 

 一方で、(具合の悪いことに)僕は人間で、若くて、男だ。年老いた雌豹かなんかだったら、すごくうれしかったのに、現実問題、僕は人間で、しかも若い男であるという、きわめて苦々しい状態にある。

 

 ゆえに、エネルギーは持て余される。ガスがたまる。しかしながら、大学で予期される青春的事象を享受するには僕は卑屈すぎる。

 

 これら諸仮定の論理的帰結として、今僕はラップトップに向かってかけらも意味のない文言をつらつらとつづっているわけだ。

 

 だけれどやるからにはきちんとしたい。あらゆる方面で「きちんと」の対義語の地位をほしいままにしてきた僕だけれど、今回ばかりはやろうと思う。

 

 問題は何をやるかであるけれど、それを決めるのは極めて難しいし、ナンセンスだ。とにかく続けること——その決意を今回は表明したい。

 

 

 僕自身を含めて、ここまで読み進めるような変わり者のために、最近(というか今)考えることを記念に残しておくことにする。

 

 

 憧れ、というものは厄介だななんて考える。

 

 僕もこれまで徒然なるままに生きてきた中で、憧れを抱く人はいた。憧れとは何だろう。同化への志向というのが落ち着くべき言い方の一つだと思う。これはとても恐ろしいことだと思う。

 

 自分らしさ、というものがある。

 

 自分の自分性を特徴づけるいくつかのフィーチャーの集合。その要素のそれぞれが、実は他人から借りてきたもののコレクションである事態は、きわめて一般的で、ほとんど人間にかけられた呪いのような様相を呈している。

 

 本来的な自分。可能性的な自分といってもいい。とにかくそういう、真っ白な自分は、人間社会にあって、決定的に封印されている。全部他人のマネ、と揶揄する自分が口を閉じない。

 

 自分としては、本来的な自分は立ち現れない。自分らしさの選び取り方の「くせ」にだけ、彼らはその存在をほのめかしてくれる。と、思う。

 

 だから好きな音楽、好きな本、好きな映画というものを、みんなは気にするのかもしれない。絶対に実現できないほんとうの自分のシルエットを、できるだけ正確にかたどるために。